バラ十字会

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バラ十字会の歴史

その9 『哲学者たちとバラ十字』第二部(前半)

クリスチャン・レビッセ

 バラ十字会は、イングランド国内で並外れた発展を経験した。しかしそれでもヨーロッパが社会的に落ち着いていた時期に起こったヘルメス思想運動よりは比較的控えめであった。しかしながらジョン・ドゲット(John Doget,15C)は、ヘルメス錬金術大全が英国に与えた影響の大きさと、キリスト教カバラ研究家のフランチェスコ・ディ・ジョルジ(Francesco di Giorgio)がヘンリー8世の時代に大いに名声を博したことを明らかにした。実際ヘンリー8世は、アラゴンのキャサリン(Catherine of Aragon, ヘンリー8世の最初の妃)と離婚するための議論に役立つ宗教上の文献をジョルジに探させて、あてにしていた。一方キャサリン妃のほうは、コルネリウス・ハインリヒ・アグリッパに助けを求めた。トマス・モア卿(Sir. Thomas More, 1478-1535)がピコ・デラ・ミランドラの著作に熱中したにもかかわらず、ルネッサンスのヘルメス思想が英国に影響を与えたのはエリザベス1世の統治時代だけであった。その主だった支持者は、外交官で文人でジョルダーノ・ブルーノの友人であるフィリップ・シドニー卿(Sir. Philip Sidney, 1554-1586)、航海者で文筆家でヱリザベス1世の寵臣ウォルター・ローレー卿(Sir. Walter Raleigh, 1552?-1618)、数学者のトマス・ハリオット(Thomas Harriot, 1560-1621)、そしてジョン・ディー(John Dee,1527-1608)たちであった。コルネリウス・ハインリヒ・アグリッパの著作に強く影響を受けていたディーは、エリザベス朝ルネッサンスの真の指導者であった。ディーが秘伝主義の蔵書を豊富に所有しており、女王は彼の書斎を好んで訪れていた。

 エリザベス1世の君臨期間に、今日のイギリス文学にも痕跡がみられるほどの秘伝哲学の論争が起こった。例えば、偉大な詩人エドマンド・スペンサー(Edmund Spenser,1552?-1599)の『妖精の女王』や『四つの賛美歌』はルネッサンスの新プラトン主義とキリスト教カバラ思想に影響されていた。この運動には、クリストファー・マーロウ(Christopher Marlowe,1564-1593)などの反対の立場をとる者がいて、彼の戯曲『フォースタス博士の悲劇的歴史』(The Tragicall History of Dr.Faustus)はヘルメス思想を弾劾するものであった。この戯曲の主人公はアグリッパの弟子として悪魔的な魔術を行っている役であった。この劇は大成功を収め、また同じように成功した『マルタ島のユダヤ人』(The Jew of Ma1ta,1592)はユダヤ人批判を通じてキリスト教カバラ思想の欠点を指摘していた。ベン・ジョンソン(Ben Jonson, 1573-1637)も戯曲『錬金術師』(The Alchemist,1610)でヘルメス思想を攻撃した。一方ウィリアム・シェークスピア(William Shakespeare,1564-1616)は、マーロウの『マルタ島のユダヤ人』に応える形で『ヴェニスの商人』を書き反対の立場をとった。このシェークスピアの作品の中には、フランチェスコ・ジョルジの『世界の調和について』から影響を受けたと見られるものがある。また、『お気に召すまま』や『テンペスト(あらし)』(1611)を含むいくつかの他のシェークスピア作品もそうであったが、これらはコルネリウス・ハインリヒ・アグリッパの『秘伝哲学』(De Occulta Philosophia)から影響を受けていた。『テンペスト』はジェームズ1世の王女エリザベスとプファルツのフリードリヒ5世の結婚の祝祭期問中に上演された。バラ十字の歴史研究の大専門家フランセス・イェーツは、この劇は紛れもなくバラ十字宣言書であると考えていた。

フランシス・ベーコン

 バラ十字運動の発端について語る時、イングランドの大法官で哲学者であったフランシス・ベーコン卿(Francis Bacon,1561-1626)の名が頻繁に出てくる。ベーコンとバラ十字との関連を調査考察している数多くの著述家たちの中でも、非常に多くのバラ十字思想の著書を書いたジョン・ヘイドン(John Heydon)が一番最初であったが、彼の仮説はしばしば行き過ぎていた。ヘイドンの著書『世界の驚異へと導く道の聖なる案内人』(The Holy Guide 1eading the Way to the Wonder of the Wor1d,1662)は、『バラ十字会員の島への航海』(The Voyage to the Land of Rosicrucians)という物語を含むが、この物語はベーコン卿のニュー・アトランティス(New Atlantis)の翻案である。それはファマ・フラテルニタティスからの様々な要素を組み込んでおり、ベーコンが言及していた「ソロモンの館」を「バラ十字会員の殿堂」にするのに何の躊躇もしていないのである。2世紀後、ジャン=マリー・ラゴー(Jean-Marie Ragon)は著書 Nouveau Grade de Rose-Croix(1860)の中でフランシス・ベーコンの様々な観念を「バラ十字会または北の教養人」の源泉にしていた。また、大きな流れとなる程の大勢の著述家たちが、ベーコンがシェークスピア劇を書いたのであることを示そうと最善を尽くしてきている。これらの中で調査を最も徹底的に行ったのは、おそらく『ベーコンとシェークスピアとバラ十字会員』(Bacon, Shakespeare, and the Rosicrucians,1888)を書いたウィグストン(W.F.C. Wigston)であったと思われる。ウィグストンの考えは、ヘンリー・ポット夫人(Mrs. Henry Pott)の『フランシス・ベーコンと彼の秘密結社』(Francis Bacon and his Secret Society, 1892)や、その他数多くの著述家たちによって繰り返し述べられていた。しかしながら、いくつかの興味深い所見を別にしても、後者の思索はしばしば大胆すぎていた。

神智学協会(The Theosophists)

 神智学協会の会員たちは、とはいえそのような仮説にはたいへん好意的だったのであり、むしろ次から次へと豊かにして普及させた。このようにして、『師たち』(The Masters, 1912)の中ではアニー・ベサント(Annie Besant)が、フランシス・ベーコンはクリスチャン・ローゼンクロイツの生まれ変わりの一人であり、ハンガリーのラコーツィ王家が発生の起点であった、そしてサン・ジェルマン伯爵も属していた一つの入門形式の組織の系統の会員のうちの一人であったとの考えを提示した。ベサントの会員仲間の一人、マリア・ルーザック(Maria Russak)はすぐその後に、そのような考えを繰り返す連載記事を雑誌『ザ・チャネル』(The Channel)に載せた。同様の方針をもう一つの著作に見出すことができ、フリーメーソン会員で神智学会員とも親しかったレ・ドロワ・ユメー(Le Droit Humain, 正しい人間の意)によって出版された『バラ十字会員』(The Rosicrucians, 1913)の中では、クラーク(H. Clarke)とキャサリーン・ベッツ(Katherine Betts)がフランシス・ベーコンがバラ十字宣言書を書いたのだと主張していた。バラ十字運動におけるフランシス・ベーコンの役割についてのあらゆる説を普及させるのに最も貢献したのは、神智学協会員でベルギーの政治家フランツ・ヴィッテマン(Franz Wittemans)であった。彼の著書『バラ十字の歴史』(Histoire des Rose-Croix, 1919)は、興味深い諸要素と大変論争的な立場を混合したものを提示している。彼はここでウィグストンやポット夫人、スペックマン博士、E.ウドニー(E. Udny)や、某神智学協会員の説を繰り返していた。

 ポール・アーノルド(Pau1Amo1d)もフランセス・イェーツも、ウィグストンの提示した論争点をやわらげて、もっと現実的な見解を採用した。この数十年間に亘るバラ十字の歴史研究家たちの様々な発見によって、バラ十字会の起源はよりよく理解されるように真になってきており、フランシス・ベーコンがファマ・フラテルニタティスとコンフェシオ・フラテルニタティスの著者であったという考えは時代遅れのものとなってきている。しかしながら、このことは我々が17世紀のバラ十字運動の中にこのイギリスの哲学者を位置付けることを妨げるものではない。ある意味で、ベーコンは〈バラ十字の理想〉を普及させることに最も成功したうちの一人であった。ある人々がベーコンを17世紀のバラ十字思想における最重要人物の一人であると見なしたのはこのためであったことは、疑う余地がない。

 更に、フランセス・イェーツは著書『バラ十字の啓蒙』(Rosicrucian Enlightenment)の中で、フランシス・ベーコンはあえて様々な点において17世紀のヘルメス思想から距離を置き、とりわけパラケルススの思想に反対の立場を取り、人間は小宇宙であるとする概念を拒絶したが、それでも依然としてバラ十字思想に強く影響され続けていたと述べている。バラ十字運動の真の支持者として、ベーコンは諸科学の改善計画~それはすぐにロイヤル・ソサエティー(英国王立協会、すなわち英国王立学術協会の創設へとつながる)を通じて新たな表現を与えたのだった。

『新機関』(Novum Organum)

 フランシス・ベーコンの諸計画の元は父ニコラス・ベーコンにあったことは疑うべくもない。ヘンリー8世がローマ・カトリック教会から離脱した後、父ベーコンは大学改革の仕事に任命された。息子フランシス・ベーコンはエリザベス女王に説得を試みた後、諸科学を改革する計画にジェームズ1世を巻き込もうと試みた。ベーコンは著書『学問の促進』(Advancement of Learning,1605)の始めの方に次のような説得力ある王への献辞を載せた。「もし、ある君主が科学の要約を熟考されたり、あるいはその単純な要点をお飲みこみになられたり、あるいは学問を愛されてご賛助されるお時間を得るようにされたならば、それは正に偉大なことになると思えるのですが、特に王としてお生まれになった陛下が、学問の真の泉から知識をお飲みになっておられ、そう、むしろ、陛下ご自身の中に学問の源を持っておられたとすると、それはまさしく奇跡に他なりませぬ。そして更には、陛下のお心の中には聖なる知識と世俗の知識の財宝すべてが結合していることから、陛下はヘルメスのように三重の栄光を纏っておられ、それらは君主の力と区別できない程の偉大さであり、僧の啓示にも哲学者の知識にも劣らないのであることと存じ申しあげております。」ベーコンが設定した計画は、学問の復活だった。べ一コンは学問がもはや暇つぶしの思索の対象ではなく、人類に繁栄と幸福をもたらすための真の道具となることを望んだ。その著書の中で彼は、人類全体に最大の恩恵が得られるようにお互いの知識を交換し合うため、あらゆる国から学問のある人々が集う友愛組織の創設を提案した。この概念はファマ・フラテルニタティスの目的を思い起こさせる。

 フランシス・ベーコンは、諸科学を総合的に調査研究する公共団体の設立を望んでいた。そして合理的で秩序だてて機能している研究所の数々を見たいと願っていた。ベーコンの計画は、すぐその後に形成された数々のアカデミーの原型であったと言えよう。彼は古代からの演繹論理学を、新しい論理的思考法、つまり経験主義と帰納論理的なものに替えようと望んだ。学究者の態度を象徴的に表現するのに、彼は蟻と蜘蛛と蜂のイメージを使った。最初の蟻は蓄積し(経験主義哲学)、二番目の蜘蛛は網の中に封じ込め(合理主義哲学)、三番目の蜂はあちこちから花粉を集めてきて蜜を作る(二つの哲学の調和)のであった。『バラは蜂に蜜を与える』とロバート・フラッドも同様の象徴を使って述べていた。イギリスの錬金術師トマス・ヴォーン(Thomas Vaughan)もこのことを、ローマの詩人ウェルギリウス(Virgil)によると蜂たちには最高天から放射されている聖なる叡智のわずかな痕跡があると指摘していた(Anthroposophia theomagica,1650)。フランシス・ベーコンは、その根幹をなす著作『新機関』(Novum Organum,1620)ではアリストテレスの古代ギリシアの論理学を排除しようと望んでいた。彼の慎重さと気質に基づいて、著作の中には秘伝哲学的なものはほとんど許されていなかったことは疑うべくもないとここで述べておかなくてはならない。

 しかしながら、フランシス・ベーコンは彼の学問の改革を押し進めることはできなかった。1601年にベーコンの支援者エセックス伯が女王の不興をかって失脚するという最初の不首尾があったにもかかわらず、ベーコンは新王ジェームズ1世の信頼を得た。1617年に国璽官となった後、翌年にはイギリスで臣下として最高の地位である大法官にまで登りつめ、ヴェルラム男爵となった。彼の出世は1621年に中断されたが、それはセントオールバンズ子爵になってすぐに、醜聞の犠牲となり権力ある地位から完全に排除されてしまったからであった。彼が『ニュー・アトランティス』(New At1antis)を書いたのはこの時期である。ベーコンは諸研究団体についてのアイデアを推進させることは出来なかったが、その心を生涯に亘って占めていた主題を理想郷の物語の形で繰り返していた。

ニュー・アトランティス

 この本は、ペルーを発って中国と目本に向けて航海しようとした旅行者たちを物語っている。悪天候により彼らの船は沈んだ。食料が底をつき、死が近いことを覚悟し始めた時、ついに見知らぬ島を発見する。彼らが島に到着し下船しようとすると、何人かの役人がやってきて、彼らの投宿に関して必要条件が書いてある巻物を渡した。もし彼らがこの国に上陸したいのであれば「異人館」に逗留することに同意しなくてはならなかった。この書類には十字に智天使ケルビムの翼のついた封印がつけられていたが、これはファマ・フラテルニタティスの終りにある表現を思い起こさせた。『エホバよ、汝の翼の下に』である。この島国はベンサレムと呼ばれており、知恵と知識を結合させて成功している一風変わった人々が暮らしていた。学問はこの国の住民にとって目的であるとともに国の社会構造の基本原理をなすものであった。人々は知識の『大いなる復興』を成し遂げていたようであった。彼らは「アダムの陥落」以前の天国のような状態を再発見しており、それはフランシス・ベーコンと一連のバラ十字宣言書が予見していたものであった。旅行者たちは『異人館』に逗留した。まもなく一人の外交官がやってきて、この国は「ソロモンの館」あるいは「天地創造の六日間の聖職者団体」によって統治されていると説明した。このほのめかしは、コンフェシオ・フラテルニタティスの中にある、時代の終末がやって来る前にバラ十字会員たちが『第六番目のろうそく』を灯す祝福された時を思い起こさせる。「〈ソロモンの館〉は・・・、物事の諸原因と秘密の運動を知り、可能な限りの物事の全てを認識するために、人間の王国の境界線を拡大させるという目的をもっていた。」この僧侶・科学者集団は巨大な研究所をいくつも持ち、科学と同様に農業、畜産、医学、機械学、芸術(絵画・彫刻・建築)などの研究に従事していた。そして研究の成果の恩恵は、繁栄と平和のもとに統治されたこの科学の楽園の全ての住民にもたらされていた。

 『ニュー・アトランティス』の核心は、学問の豊かな科学の財産と島国ベンサレムでの暮らしの社会組織について述べていた。この比較的短めの文献は未完成のままであった。これは作者の死後一年すぎた1627年にベーコンの牧師であったウィリアム・ロ一リー(William Rawly)によってやっと出版された。この文献にもベーコンの他の著作にもバラ十字会員(Rosicrucian)という名前は出てこないが、様々な個所からバラ十字の影響を感じ取ることが出来る。この類似点については、多様な著作を通じてこのつながりを強調しつづけていたジョン・ヘイドンの指摘から免れることはできなかった。フランシス・ベーコンはファマ・フラテルニタティスが既に手稿の形で出回っていたことを知らなかったはずはない。ここで、ベーコンは1613年にバラ十字会の擁護者ジェームズ1世の王女エリザベスとプファルツのフリードリヒの結婚の祝祭に関係していたことを思い出さねばなるまい。実際、フランシス・ベーコンはこの時に余興として『神殿法学院とリンカン法学院の仮面劇』を着想していたが、これは結婚式の翌日に上演された。

※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」(No.99)の記事のひとつです。

 

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