バラ十字会

非宗教・非営利団体であるバラ十字会は、
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宣言書(manifesto)

 

第2部

 世界的な宗教に関しては、現在2つの正反対の運動、つまり求心的な運動と遠心的な運動が起こっていると私たちは考えています。求心的な運動とは、内側を向いているという意味です。求心的な運動は、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教、そして他の宗教における原理主義者のグループからなり、彼らは宗教的な源流への回帰を求めています。遠心的な運動とは、外部の世界に目を向ける動きであり、その結果、全般的に言えばその宗教の信条、特に宗教上の独断的で固定的な教義(ドグマ)を無視するということが起こっています。人々はひとつの信仰の体系の周囲に留まることに、もはや満足してはいません。たとえその宗教が「啓示(悟り)に基づいている」と言われているとしてもです。人々は今や、自身の体験から生じた思考体系の中心に自分を置きたいと思っています。ですから、宗教上のドグマを、人々が機械的に受け入れることはなくなっています。信者たちは、宗教的な問題に関して、かなり批判的な感覚を獲得するようになっており、自分自身で検証することに自身の信念の基礎を置く傾向がますます強まっています。心の深奥の要求を満たすために、かつていくつかの宗教が生まれました。そのような宗教は細かく分かれていき、社会的にも文化的にもそれぞれの土壌によく根づき、社会や文化を豊かにすることに貢献してきました。今日、それは地下に張り巡らされた根でつながった多くの茂みになり、姿を変え続けています。しかし、時代精神が求めているのはそのような宗教なのでしょうか?

 世界的な宗教が分派したり、それに代わって今日存在しているものは、似たような考えを持つ人々からなる団体や、同じような観念を共有する宗教的な共同体です。あるいは思想的な活動であり、そこでは教義は押しつけられるというよりも、むしろ提案されています。これらの団体は、自由意思に基づいて支持されています。このような宗教的な共同体や団体や活動がどのような内容であるかに関係なく、このような集団が増加していること自体が、人々が求めている精神探求の多様化を示しています。一般的にいえば、かつては尊重されてきた世界的な宗教が、もはや信仰を独占していないために、このような多様化の状況が生まれていると私たちは考えています。宗教が人々の疑問に答えることはますます困難になってきており、今では人々に精神的な満足を与えることができなくなっています。また、宗教自体が精神性を遠ざけるようにしてきたために、人々が宗教から遠ざかってしまったように思えます。精神性の本質は不変ですが、人間の進歩にできるだけ適合するようなさまざまな方法で、精神性はいつでも自体を表現しようとします。

 世界的な宗教が生き残れるかどうかを左右するのは、幾世紀もの間それらの宗教が採用してきた、非常に独断的な道徳と教理に束縛された信仰と、社会での地位を捨て去ることができるかどうかでしょう。もしこれらの宗教が存続することを望むのであれば、社会に適応することが不可欠です。人間の意識の進化や科学の進歩を考慮しなければ、宗教は徐々に消滅することを自ら運命づけることになり、そしてその消滅には、これまで以上の人種的、社会的、宗教的な紛争が伴うことになるでしょう。いずれにせよ、世界的な宗教の消滅は当然避けられず、善悪の観念が世界中で共通化されていくことに影響を受けて、多くの宗教からひとつの普遍的な宗教が誕生し、人類の再生のために宗教が提供することのできる最も善良な部分だけが統合されることになると私たちは思っています。さらに、〈創造主/神〉の法則、つまり自然界の法則、普遍的で形而上学的な法則を知りたいという望みが、いずれは、ただ単に神の存在を信じるという欲求に取って代わるものと私たちは考え、それによって、いつの日にか信仰が知識に道を譲ることになると私たちは考えています

 道徳の意味は、以前にもまして曖昧になりつつあります。そして、ますます見向きもされなくなっているように思われます。社会的な秩序や、宗教的な規範、政治的な法令、あるいは他のさまざまな規則や、独断的な見解にさえも、道徳のほうがやみくもに追従してしまっている現状が見られますが、私たちの見解では、そのようなことはするべきではありません。しかし、私たちの仲間である多くの人々は、このような状況が今日の道徳に起こっているのに気づいています。そして、そのような状況を否定しています。道徳をないがしろにすることなく、人間のひとりひとりが、自身に対し、他の人に対し、また環境に対して敬意を払うべきであり、道徳はその敬意と結びついているべきであると私たちは考えています。自尊心とは自分自身の考え方に従って生きることであり、他人の考え方を認めない傲慢な態度のことではありません。他者に対する敬意とは、過去のあらゆる賢人たちが教えているように、単に、自分がしてもらいたくないことを他人に行わないということです。環境に対する敬意に関しては、自然を尊重し、将来の世代のために保護することは、心から自然にあふれ出る強い願いであると特に申し上げておかなくてはなりません。この見地から考えれば、すべての人が権利と義務の間のバランスを取ることが道徳であり、権利と義務が均衡していることは、道徳にヒューマニズムという性質を与えるものであり、独断的な意見を押し付けるものでは全くありません。

 今説明した意味の道徳というテーマから、私たちは教育の問題全体を考えるように導かれます。教育の問題は今や非常に危険な状態にあります。大部分の親たちは、教育の過程に全く関心を持っていないか、あるいは子供を適切に教育するのに必要な資格がもはやありません。多くの親たちはこのような欠点を埋め合わせるために、自分たちの責任を教師に押しつけています。しかし、それよりもまず考えるべきなのは、教師の役割です。教師の役割とは教えること、つまり単に知識を伝えることなのでしょうか。そうではなく、教育とは公民にふさわしい、倫理的な価値観を正しく教えることであるべきです。ソクラテスは、「教育とは魂のさまざまな美徳を目覚めさせる術である」と考えていました。その美徳とは謙遜、寛大、正直、寛容、親切などでした。この点において、私たちはソクラテスに同意します。このような美徳が精神面に与える影響はすばらしいものですが、心のさらに深奥に与える影響は別にしても、これらの美徳こそが、親たちや、大人たちが、子供たちにきちんと教えるべきものであると私たちは考えています。当然ながらそれは、たとえ親たち自身がこれらの美徳を身につけていなかったとしても、少なくともこの美徳を身につける必要性に気づいていなくてはならないということを意味しています。

 きっとみなさんもご存知のように、過去のバラ十字会員たちは物質的な錬金術を実践していました。それは錫や鉛のような卑金属を黄金に変換することでした。しばしば見落とされることがありますが、彼らは精神的な錬金術にも自身を捧げていました。現在のバラ十字会員は、精神的な錬金術を最も重要視しています。というのも、世界は今まで以上にそれを必要としているからです。精神的な錬金術とは、先ほど述べたさまざまな美徳をしっかりと身につけるために、人間のあらゆる欠点をその反対の性質へと変換することです。実際に、そのような美徳が人間の尊厳の基礎を築いているのだと私たちは信じています。というのも、自分自身の考え方や言葉や行動に、そのような美徳を表わすことができたときだけ、人間はその地位にふさわしいと考えているからです。ひとりひとりの宗教的信念や政治的観念、あるいは他の思想がどのようなものであっても、全ての人がこれらの美徳を身につけようと努力するならば、間違いなくこの世界は今よりも良くなっていきます。もしそうなれば、人類は人類自体を再生することができますし、再生しなければなりません。しかしそうするためには、ひとりひとりの人が、道徳と精神性という面で生まれ変わらなくてはなりません

 芸術に関しては、過去数世紀の間に、そして特に最近の数十年間に、合理性を求める傾向が強まり、芸術をより抽象的な方向に向かわせていると私たちは考えています。このことは、芸術を相反する2つの傾向、エリートの芸術と大衆の芸術に分かつことになりました。エリートの芸術は抽象によって表現され、ほとんどの場合、その専門家だと自称している人や、そのように言われている人だけにしか理解されていません。それに対する当然の反作用として、大衆の芸術はしばしば極端に具象主義的な手法を取り入れ、写実的な描写の表現を強調して、エリート芸術の傾向と対立しています。しかし逆説的に思えるかもしれませんが、どちらも物質主義のさらなる深みに陥ってしまっています。というのも反対のもの同士が実は同じものになってしまうということは、多くの場合真実だからです。このように芸術は、人間の活動の他のあらゆる領域を反映して、構造的にも、そしてイデオロギー的にも物質主義的になってしまっています。最近の芸術は、ソウルから生まれ出る強い願いよりも、むしろエゴ(自我)から生まれる衝動を描写していますが、それは残念なことです。

 真に霊感を受けた芸術とは、〈神聖な領域〉の美しさと純粋さを、人間の領域で描写することであると私たちは考えています。この見地から言えば、騒音は音楽ではなく、単に塗り付けることは絵画ではなく、単にハンマーを打ちつけることは彫刻ではなく、でたらめに動くことは舞踏ではありません。これらの種類の芸術が、一時的な何らかの流行を表現することだけに関わっていないならば、無視することのできない社会的なメッセージを伝達することができる重要な表現の手段となります。もちろん私たちは、そのような表現の手段の価値を理解することができます。しかしそれを単に「芸術的」と呼ぶことはふさわしくないように、私たちには思えます。芸術が人間の再生に関与するためには、自然で普遍的で、かつ精神の深奥に属する元型から得られるインスピレーションを芸術は描写しなければならないと私たちは考えています。それは芸術家たちが非常に平凡な固定概念へと「下降する」のではなく、むしろ、これらの元型へと「上昇する」ことを意味しています。同時に、芸術自体が美の本質や価値を追求する目的を持ち続けることが絶対に必要です。私たちの見解では、芸術が意識をより向上させることに本当に貢献し、〈宇宙の調和〉の人間による表現になるためには、この2つの重要な条件を満たさなければなりません。

 人間同士の関係において、人はますます利己主義へと進み、利他主義のもとに行動する余裕をますます無くしてしまっていると私たちは考えています。もちろん連帯感の高まりが起こることもあります。しかしそれは、洪水、嵐、地震などのような大災害の際にだけ、ときたまそうなるだけです。普段は、「すべての人が自分自身のために」という残念なポリシーが優先されて、人々は行動しています。私たちの見解では、このような個人主義の増加もまた、今日の現代社会にはびこっている過剰な物質主義の結果です。とは言うものの、結果的に生じる孤立感は、他の人との交流を再び深めたいという願いや必要性をいずれもたらすことになります。そうでなければ、その孤独を契機に、全ての人が自分自身の内面をもっと見つめるようになり、やがては精神性に向き合うようになることを私たちは願っています。

 暴力が一般に広まっていることもまた、とても心配に思っています。もちろん、残念ながら暴力はいつの時代にもあったのですが、しかし現在は個人の暴力がますます増えてきています。さらに深刻なことに、以前よりも若い世代に顕著になっています。この21世紀の初頭において、ある子どもが別の子どもを、いかなる明らかな良心の呵責もなく殺すということが起こっています。現実社会の暴力に加えて、映画やテレビの画面を占めている虚構の暴力が存在しています。現実の暴力が虚構の暴力を刺激し、虚構の暴力が現実の暴力をさらに助長し、止めなくてはならない悪循環を生み出しています。暴力にはあまりにも多くの原因があること、たとえば社会全体の貧困、家族の崩壊、復讐心、支配欲、不公平感等があることは否定できません。しかし、その中でも最悪の誘因は、まさに暴力そのものです。明らかに、このような暴力の文化は社会にとって有害であり、建設的ではありえません。特に、人類が歴史上初めて、地球規模で自体を破壊する手段を持っている現状ではそうです

 現代の逆説のひとつですが、このコミュニケーションの時代に、ひとりひとりが実際には、もはやお互いに意思を伝達し合っていないことに、私たちは今さらのように気づかされます。家族でありながら、今では互いに会話をしていないのです。ラジオを聞いたり、テレビを見たり、インターネットを見たりするのにあまりにも忙しいからです。もうひとつの確かな事実がより広く注目を集めています。それは、電子的な通信手段が普通の意思伝達の手段に取って代わってしまったことです。それによって、人間は孤立し、先ほど述べた個人主義が助長されています。私たちの意味するところをどうぞ間違えないでください。個人主義は、自立して責任を持って生きるための当然の権利であり、私たちの考えでは、全く非難されるべきものではありません。それどころか正反対なのです。しかし、それが他人を否定することに基づく生活様式になったときには、個人主義は特に有害に思えます。個人主義が家庭と社会構造の崩壊の一因となっているからです。

 矛盾しているように思えるかもしれませんが、現在、人々の間にコミュニケーションが欠如している原因の一部は、過剰な情報の結果であると私たちは感じています。もちろん私たちは、伝える権利や伝えられる権利に疑いを持っているのではありません。というのもこの2つの権利は、あらゆる真の民主主義の柱であるからです。それにもかかわらず情報は、その反対に情報離れを生じるほどに、過剰であると同時に、押し付けがましいものになってきたように思われます。また、人間が危険にさらされているという状態に主に情報の焦点が当てられており、人間の行動の否定的な側面を強調しすぎていることを私たちは残念に思っています。悲観的な見方や悲しみや絶望を助長するだけならまだしも、最悪の場合は、疑いや不和やうらみをも増幅させています。世界を醜くしているものを指摘するという正当な必要性はありますが、それでも、世界を美しくすることに貢献しているものを明らかにすることにこそ、すべての人の最大の興味があります。これまで以上に、世界は楽観的な見方や希望や協調を必要としているのです

 人間が人間を理解することは、大いなる前進の一歩を踏み出すことになることでしょう。それは20世紀に経験した科学の進歩やテクノロジーの発達よりもさらに根本的なものになります。そのために、すべての社会集団は、人々が実際に顔を合わせる機会を持つように働きかけていくだけではなく、世界に向けて集団自体を開かれたものにしていかなくてはなりません。そうすることによって、バラ十字会自体もすべての人を「世界市民」にすることを目的とする、人道的な友愛組織の活動を守り続けています。すべての人を「世界市民」にするということは、人種的、民族的、社会的、宗教的、政治的なあらゆる差別意識や差別状態を終わらせることです。結果的に、そうすることが団結と協力に基づいた〈平和の文化〉の実現を進めることになりますが、バラ十字会員は常にそれに身を捧げてきたのでした。人類は本質的にただひとつであり、人類の幸せは、誰一人として例外なく、すべての人がより幸せになることによってのみ達成されるのです

 自然と人類の関係に関して、全体として人間がこれほど自然に対して害を及ぼした時代はかつてなかったと私たちは思っています。人間の活動が、環境にますます荒廃をもたらしていることは誰の目にも全く明らかなことでしょう。さらに、人類という種が生き残れるかどうかが、自然のバランスを尊重する人間の能力にかかっているということも明らかです。食物に対して行われている生物学的操作、汚染物質が広く使用されていること、核廃棄物の蓄積を十分に管理しないことによって、文明の発展は多くの危険を生み出してきていますが、これらの例は重大な危険のほんの一部でしかありません。以前は専門家だけが自然保護に関わっていましたが、自然保護は、すなわち人類を保護することでもあり、今やすべての人の責任となっています。さらに自然保護は、今や世界規模の最大の関心事となっています。まさに自然に対する私たちの概念が変化してきており、自分自身が自然の一部であることをさらに理解するようになるにつれ、世界的な自然保護はなおさら重要になっています。人間は自然を自分たちが望む状態にすることができるのですから、現代の私たちはもはや「自然をあるがままにする」とは言えなくなっています。

 現代の特徴のひとつはエネルギーの大量消費です。もしエネルギーの消費が理性的な判断のもとに管理されていれば、この問題は本来、それほど心配される事態にはならないはずです。しかし石炭、ガス、石油などの天然資源が過剰に採掘され、徐々に使い果たされつつあります。さらに、原子力発電のような一部のエネルギー源は、克服することが非常に困難な深刻な危険性を生じています。また、最近の対話の試みにもかかわらず、ガスの放出による温室効果、砂漠化、山林の乱伐、海洋汚染などのような危険に対して、自然破壊をやめさせようという明確な意志がないために、十分な保護の対策が行われていません。このような環境破壊は、人間を極めて深刻な危機に直面させるという事実に加えて、個人も、社会も、全く成熟していないことを表しています。一部の専門家の主張とは異なりますが、暴風雨や、洪水など現在の異常気象は、あまりにも長い間、人類が私たちの惑星に与えてきたダメージの結果であると私たちは考えています

 もうひとつの重大な問題、水の問題に、将来私たちは直面し、その影響はますます増大していくであろうことは確実です。生命の維持と発達に水は欠かすことのできない要素です。どのような形にせよ、すべての生物は水を必要としています。私たちの身体の70パーセントを水が占めているという理由だけをとっても、人間もこの自然の法則の例外ではありません。しかし今日、清浄な水を手に入れることができるのは、世界の住人のおよそ6分の1に限られています。この比率は地球規模の人口増加と大河や小川の汚染のために、この先50年もしないうちに、さらに4分の1になってしまう可能性があります。今日では、有名な専門家たちの大多数は、「黒い黄金」つまり石油よりも、「白い黄金」と呼ばれる水の方が、21世紀の重要な資源になるということに、意見が一致しています。それは、水があらゆる紛争の原因となる可能性があるということでもあります。ですから、世界的なレベルで、この問題を認識することが不可欠です。

 大気汚染もまた、すべての生物、特に人類に対して、深刻な危機を引き起こしています。産業や冷暖房や輸送は、大気を汚染する原因となっており、潜在的な健康被害が生じています。都市部は大気汚染の影響を最も受けており、都市化が進むほど、その脅威は増大します。このため、都市の肥大化は社会のバランスを崩す、見過ごすことのできない危険性をはらんでいます。都市の大型化に関して、私たちはプラトンの助言に同意しています。プラトンについては言及しましたが、彼は何世紀も前に以下のように述べています。「都市はその統一性が維持される点までは拡大することができるが、それを越えてはならない。」都市を過度に巨大化するような政策では、私たちがさきほど定義したヒューマニズムを推進することはできません。巨大化によって、大都市には必然的に争いが起こり、スラム化や治安の悪化が生じます。

 動物への人間のふるまいもまた、自然と私たちの関係のひとつです。動物を愛し尊重することは、私たちの義務です。すべての生き物は、〈地球〉上に表現されている生命の鎖の一部分であり、すべての生き物が進化の推進者なのです。動物たちもまた、それぞれにふさわしい〈創造主/神〉のソウルが宿る乗り物なのであり、〈創造主/神〉の計画に関与しているのです。そして、動物の中で最も進化しているのは人間であり、その進化は現在も進行している過程にあると言うことができます。そのように考えれば、多くの動物が飼育され、殺されている状況は正しくないことがわかります。生体解剖は、残酷な行為であると私たちは考えています。一般的に言って、友愛の輪には、生命がバラ十字のしるし与えられている全ての生き物が含まれなくてはならないと私たちは考えています。ですから、私たちは、ピタゴラスが言ったとされている以下の言葉に同意します。「自分より下等だと考える生き物を、人間が無慈悲に殺し続けている限り、人間は健康も平和も知ることはできない。人が動物をs殺戮している限り、人は互いに殺し合う。殺害と苦悩の種を蒔くものは誰であれ、結果として喜びと愛を収穫することはできない。

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